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明専会報(第927号):お勧め記事のご案内

2023/11/15 文責者:明専会広報部会

今号(第927号)のお勧め記事は、シリーズ連載となっている「私の自慢話」です。
九州大学名誉教授でいらっしゃる、園元謙二氏がご執筆くださいました。

前号に掲載した「前編」に続き、今回は「後編」となります。
飯塚キャンパスに赴任された時のこと、九州大学に移られてからの研究のこと、そして宇宙への夢を叶えた「オーラルピース」についてなど、たくさんの想い出とともに、研究に関することなども書かれています。どうぞご覧ください。


「宇宙へ飛び出した乳酸菌研究!」
 前編(研究の変遷のよもやま話、人の縁)

化51 園元 謙二

 

私の経歴③ 飯塚(1990年~)

 

 1990年3月末、飯塚に新設された九州工業大学情報工学部に移るため、夜半まで京大の研究室の片づけをしている時、学生にドイツでの“タイムカプセル”(前編参照)の話をした。すると、数名の学生が我々も埋めようと言い出した。急遽、記念品を納めた“タイムカプセル”を作り、懐中電灯とスコップを手に銀閣寺を通って如意ヶ嶽(大文字山)に登り始めた。因みに、私の記念品は学生たちが私を押さえつけて切った髪の毛であった。大文字山は京都の夏の風物詩“五山送り火”で最初に点火される山である。登山道は明かりもなく、酒も入っていたので途中で転ぶ者も続出したが、約1時間後、無事、“大”の字の真ん中の火床にたどり着き、そこから数メートル離れた場所に埋めた。21世紀になったら再会して掘り出すことを約束した。その後、なぜか参加人数も増え、5年ごとに埋めなおし、宴会までしている。但し、最近は皆、体力が落ちてきたのでもっと低い吉田山にある「紅もゆる」石碑近くに埋めている。(余談)何回目かの“タイムカプセル”の時、参加者の子ども(小学生)数名も参加した。子どもたちが面白がって穴を掘っていると、偶然通りかかった参拝者が『何してんねん』と尋ねるので、『地質調査で掘っています』と答えた。しかし、なぜ子どもが掘っているのかについては聞かなかった。
 そして4月、情報工学部の最後の学科、生物化学システム工学科に助教授(生体触媒講座)として赴任した。同じ講座に教授、助手は居るものの、単独で研究室を運営できる大講座制であった。30代半ばという若さもあり、不安より『やるぞ』という期待の方が大きかった。しかし、まだ建物がなかった!? 赴任した最初の1年間、4人の新任教員はスチール机が4つ置かれただけの部屋で同居していた。仕方ないので、平日は多くの講義や学生実験指導をこなし、週末に研究のために戸畑の恩師の研究室に通っていた。恩師や研究室の皆様には大変感謝している。そして、1年後に現在の8階建ての研究棟が完成し、まっさらな私の研究室に修士の試験を合格した3名の外部生が第一期生として入ってきた。この学科は1989年から学部生を受け入れていたので、まだ卒論生は居なかったからである。彼ら3名は修了までの2年間、私のかなり厳しい(前編で述べた教訓に基づいた?)そして強引な指導の下、昼夜を問わず研究に邁進し、見事に期待に応えてくれた。すばらしい学生であった。因みに、彼らは研究室でよく『それが大事』を歌っていたのを覚えている。
~♪負けない事・投げ出さない事・逃げ出さない事・信じ抜く事…♪~
なお、研究テーマは、異常環境下での生化学反応と生体触媒の新機能開発に関するものであった。
 当時の研究費はわずかなものであった。校費のほとんどが教員に配分される前に共通
費として差し引かれていたからである。特に、電気代が非常に高く、4階まではエレベーターは使用禁止、冷房は抑えよ(ガラス張りの暑い建物だが)などで節約していた。我々も急ぎの用がなければ7階の研究室まで階段を利用し、運動不足の解消に努めていた。研究費を稼ぐために、科研費はもちろんのこと、民間財団の助成金に関するガイドブック『助成財団』を購入して、年に50件くらい応募していた(ほぼ週に1件)。もちろんその数だけの研究テーマがあるわけはなく、助成の趣旨に合わせて申請内容を変えていた。現在のように電子申請ではなかったので、作成した文章の切り貼りが必要で、この作業のプロになった気がしていた。また、当時の科研費申請は印刷したものを冊子体として複数部作成する必要があり、糊付けが極めて上手になった。講義・学生実験指導、研究室指導を終えて、夜半から申請書を作成し始め、7階の窓から雲海の上を朝日が昇ってくる素晴らしい景色を何回拝んだことであろう。・・・・・

 

 

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